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〒680-1151 鳥取県鳥取市倭文548-1

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〒680-1151 鳥取県鳥取市倭文548-1

ご由緒

旧国郡名:因幡国高草郡
旧社格:郷社
社紋:五三の桐

倭文集落に西接の山の中腹に鎮座。勧請年月は不明だが、倭文部がその祖神を祀ったものと伝えられる。延喜式神名帳に載る高草郡七座の一つで、中世以降は御祭神の一柱・大己貴命(おおなむぢのみこと=大国主命)が七つの名を持つことから、七躰大明神と称して産土神とされた。
天正年間(1573年~1592年)に玉津城主・武田高信が三尺社を建立、慶長年間(1598年~1615年)に鹿野城主・亀井?矩(これのり)が宝刀を奉納(右写真)、さらに寛永9年(1632年)に藩主・池田光仲が社領一石三斗一升七合を寄進するなど、鳥取城南西(坤)の方位の守護神として崇敬された。

ご宝刀
江戸時代は藩主のみでなく庶民の崇敬も広く、明和元年(1764年)の遷宮には大庄屋が郡中を代表して米俵を奉納、文化7年(1810年)には郡奉行が銀百匁を奉納、また、節分祭には広く近郷よりの参詣者が集まるなど、郷間衆庶の信仰は因幡一円におよび昭和初期まで続いた。
明治元年「倭文神社」と改称、同4年に村社に列格、大正4年神饌幣帛料共進神社に指定、大正8年に本殿、幣殿、拝殿、社務所を改築、昭和18年10月1日郷社に昇格する。

倭文部(しとりべ)について

この部民は、厳密に言うと、五世紀後半の百済系帰化技術民渡来以前の民である。因伯には直接、倭文部に関する文献はなく、式内社に伯耆国川村郡(現・湯梨浜町)及び久米郡(現・倉吉市)にそれぞれ倭文神社があり、前者は伯耆の一の宮として、後年(天慶3年・940年)には、正三位の神階を授かった大社であった。
因幡に高草郡(鳥取市倭文-旧気高郡大和村)に倭文神社(当神社)があり、また「和名抄」の郷に「倭文郷」があって、倭文神社のある旧大和村一帯がこの地とされている。どの地域も古墳にも富み、古くから開かれた土地柄で、倭文部という古い織布技術を持った居住地にふさわしい。
倭文の由来をみると、「日本書紀」の「神代」巻に、「倭文神、建葉槌命」、「古語拾遺」には、「倭文の遠祖、天羽槌雄命」などとみえ、倭文部伴造の祖神と考えられる。また、「垂仁紀」39年条異伝に、五十瓊敷皇子(いそまがしきのみこと)が河内国河上宮において作らせた剱一千口を、石上神宮に納め、「楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部(はつかしべ)・玉作部・神刑部(かむおさかべ)・日置部(へぎべ)・太刀佩(はき)部」など、10箇の品部(とものみやつこ)を賜った。この説話は、「綏靖紀」にみえる「倭鍛冶部」の説話と同じく、「倭鍛冶部」や「倭文部」の名は、「韓鍛冶部」や「錦織部」の渡来後につくられ、「品部」の語も品部の制が出来てからつけられたものと考えられる。「倭文部」は新羅系の技術を伝えるもので、百済系の新技術を持つ「呉服部」・「錦織部」に対応するものであろう
「倭文部」は、「しとり」・「しづおり」と訓まれているが、「古語拾遺」には倭文遠祖が「文布(ふみぬの)」を織ったあとから、文様を織り出した布を作る技術者を指すのであろうが、おそらくそれは単なる手織りであって、緯糸に色糸を用いた多色の文様織のことであったろうとしている。(小林行雄著「古代の技術」)
なお、倭文に関する人名・地名・神社名などは極めて広く分布し、大和・山城・河内・伊勢・駿河・甲斐・伊豆・常陸・近江・上野・下野・磐代・磐城・越前・丹波(加佐郡及び与謝郡には式内社倭文神社があり)・但馬(朝来郡に式内社倭文神社あり)・出雲・美作・淡路等にみられる。
「常陸国風土記」久慈郡の条にある「静織の里」に鎮座する「静(しず)神社」も武葉槌命を主祭神としている。

因幡国(鳥取県東中部)伯耆国(鳥取西中部)の倭文組織について
機織り

古代における因幡・伯耆の工業生産は、当時比較的生産の進んだ、また、文化の進んだ地帯にあったかと思われる。
因伯二カ国の養蚕業と農民の絹生産の状況をみると、これらの絹製品は、調(ちょう)のための生産物であって、一般農民の生活に使用されたものではなかった。高級絹織物の生産地について、「続日本紀」和銅5年(712年)7月壬午の条を見ると、伊勢国をはじめとして21ヵ国があげられている。その国々の中に因幡・伯耆の2ヵ国も含まれている。

因幡・伯耆における制織関係の歴史は古く、かつ、盛んであったことが立証できる。すなわち、錦・綾の生産と関係の深い錦部の所在は、因幡国高庭庄に、「錦部志奈布女」(平安遺文)の人名が発見されることから想像できる。
また、縞織といわれる「倭文布(しづぬの)」についても、古くから倭文組織のあったことが証明されている。倭文組織・倭文部の全国分布表を作成すると、山陰地方と東海地方に集中することは、すでに上条耽之助・井上辰雄らによって、明らかにされたことである。すなわち、「延喜式」に記載されている「倭文神社」は、14社であるが、そのうち、6社は山陰道に、5社は東海道に、2社は東山道に、1社は畿内に、それぞれ分布している。また、「延喜式」に載っていない倭文関係の神社は8社あるが、そのうち7社は東海道にある。
因幡・伯耆に関する倭文神社その他のものをあげると、因幡では、「延喜式」「神名帳」、及び「和名抄」の両資料に、高草郡に「倭文神社」のあったこと、また、「平安遺文」に高庭庄の人として倭文真弘なる人名が記録してある。
因幡国・伯耆国ともに、大体、「倭文神社」の所在する所は海・河川・湖沼に近い高台にあることが共通的である。この現象は、全国的に共通する条件でもある。そうすると「倭文部」は「海人部」と関係深い部民であったこと、製織技術の面から秦氏との関係も考えられるであろう。以上の如く、「倭文部」が高草郡高庭庄に、また、川村郡に存在し、高級絹生産にあたったことはほぼ間違いがない。そして、これらの高級生産物は、中央貴族の貴侈品であったであろうが、次第に民間への技術普及とともに伝播していったと考えるべきであろう。(上条耽之助「倭文部の研究序説」「日本歴史」、井上辰雄「正税帳の研究」)

祭祀

倭文神社では、年間さまざまな祭典が斎行されます。
特に、毎年2月3日の「節分祭」は古来より有名で、近郷の崇敬者が集まり、年男・年女により魔を滅するという意味で豆を撒き、還暦などの年祝いを行います。
また、「夏越祭(なごせ又はなごしまつり)」では、茅(かや)で編んだ茅の輪(ちのわ=下写真)をくぐり、無病息災と家内安全をお祈りします。
近年は、恋文が届いた直近の祭典で、恋文奉納・焼納の儀(右写真)を行い、願い事を直接ご祭神様にお届けしています。
・元旦祭(1月1日)
・節分祭(2月3日)
・祈年祭(4月下旬~5月上旬)
・夏祭(7月上旬)
・夏越祭(8月上旬)
・祖霊祭(9月下旬・勤労感謝の日)
・例大祭(10月上旬)
・霜月祭(12月上旬)

恋文焼納の儀
茅の輪

◎建葉槌命(たけはづちのみこと=天羽槌雄命、倭文神)
御利益:織物業守護、産業開発、安産、商売繁盛
全国の倭文神社御祭神。織物の神様で、綿が使われ始めた450年程前は、麻と絹織物だった。麻は庶民、絹は上流階級だが、それを混ぜて織ったのが「倭文織り(しづおり)」という指摘がある。日本書紀に「カカセオ(天香香背男)」という神が登場する。葦原中津国平定に最後まで抵抗した「まつろわぬ(従わない)星神」で、当神社御祭神のフツヌシ(經津主神)、タケミカヅチ(武甕槌神)でも打ち破れず、「タケハヅチ(倭文神建葉槌命)」が征服して、この神を封じたとある。また、天羽槌雄神(あめのはづちおのかみ)として、天の岩戸の玉串に飾る布を織った神であり、この布は楮(こうぞ)や麻から作った「倭文(しづ)の綾織」とある。


◎大己貴命(おおなむぢのみこと=大國主命、八千矛神、大物主命)
御利益:国内平定、農業保護、医薬、縁結び、病気平癒、温泉、学業、商売繁盛、家内安全
大國主命のこと。出雲大社に御鎮座。オオナムチをはじめ、ヤチホコ、オオモノヌシ、ウツシクニタマ、アシハラシコオなど、多くの別名を持つ。出雲神話の主神スサノオノミコトの六世の子孫で、アメノフユキヌノミコトとサクワカヒメノミコトの子。
神々の里出雲で、大国主命の異母兄弟・八十神(やそがみ)達が、因幡の国の八上の郷(現、鳥取市河原町・当神社より少し南部)に、美しい姫がいると聞きこの姫を娶ろうと考えた。

大己貴命
八十神達は、弟の大国主命に大きな袋に入れた贈り物を持たせると、弟に先立って因幡の国へ向かった。途中の海岸で鰐(わに・サメのこと)に皮を剥がれて苦しんでいた白兎がいたが、八十神達は、わざと誤った治し方を教えて笑いものにした。遅れて着いた大国主命は苦しんでいた兎に正しい治し方を教えて助けた。その兎神は、「八上姫と結ばれるのはあなたです」と予言し、八上姫は、八十神達の求婚を悉く断り、大国主命に「私の慕うお方はあなたです」と告げて結婚した。
この二人のロマンスにちなんだ地名が鳥取市には今も残っている。例えば、大国主命が贈り物を詰めた袋を捨てた千代川の河原が「袋河原」。当社家の兼務神社「荒御崎神社」のある地名は、「布袋」。そして、恋文を書いたところが当神社「倭文神社」。また、当社家の兼務神社「真幡木神社」のある「円通寺」という地名は、二人が縁を通じた「縁通路」に由来する。


經津主命

◎經津主命(ふつぬしのみこと 千葉県・香取神宮鎮座)
御利益:武道、競技、合格出世、開運招福、災難除け、延命長寿、殖産興業、交通安全、縁結び、安産、大漁
千葉県・香取神宮鎮座の御祭神。日本書紀の神産みの第六の一書で、イザナギノミコトが火の神カグツチを十握剣で斬った時、滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となって生まれた刀剣の神。葦原中国平定の際に際し、最後の使者としてタケミカヅチノミコトと共に派遣され、オオクニヌシノミコトに国譲りの交渉をした。神名「フツ」は刀剣でものがよく切れる様子を表している。 「古事記伝」ではタケミカヅチノミコトと同一の神としているが、別の神格である説が現在有力である。


◎武甕槌命(たけみかづちのみこと 茨城県・鹿島神宮鎮座)
御利益:武道、競技、政治、芸能、五穀豊穣、厄除け、殖産興業、航海の神、地震を鎮める神

茨城県・鹿島神宮鎮座の御祭神。天孫とともに降臨した中臣氏、藤原氏の氏神。經津主命と同様に、イザナギノミコトがカグツチの首を切ったときに刀についた血が岩石にほとばしって生まれたとされている刀剣の神格化された神様。葦原中津国平定に際して、フツヌシノミコトとともに三番目の使者としてアマテラスオオミカミからアメノトリフネを添えて派遣され、波の上に逆に刺して立てた剣の切尖の上にあぐらをかいてオオクニヌシノミコトに国譲りを迫った。

武甕槌命
大国主命の息子の一人タケミナカタノミコトが力比べを挑むと、手を剣の刃に変えて見せた上で、逃げるタケミナカタノミコトを諏訪まで追って降参させ、それにより葦原中津国平定が完成したといわれる。神武天皇東征に際しては、自分の身代わりとして霊剣フツノミタマを降して神武天皇を助けた。


神社が鎮座する山の中腹に湧く、「倭文ノ宿禰水」。昔は、女性の血の道の霊薬と伝えられていたが、現在はその井泉は飲用には使用されず、手水舎の水として曳かれている。
あまり高くない山にもかかわらず、日照りでも何故か枯れることはない。


information

倭文神社|鳥取市

〒680-1151
鳥取県鳥取市倭文548-1
FAX.0857-28-8343